ろんじえぱぱ 日常力~我がままに~

発達障害児の育児をきっかけに哲学、禅、科学的根拠を取り入れ、日常を磨き自己能力を最大化するブログを発信している40代

見返りを求めない心を持つ大切さ

見返り 求めない 心 大切

見返り 求めない 心 大切


こんにちは!ろんじえぱぱです!

 

今日は梅雨にもかかわらず抜けるような晴天で、つい妻と一緒に東京駅近くにある相田みつを美術館に行ってきました。ひとつひとつの言葉が心に突き刺さって感無量になり、思わず胸がこみ上げてくる場面もあったほどです。数多あるフレーズの中で特に印象に残った言葉が青春の反対を示す『麗老』という言葉で、『麗しく老いる』との意味を表し相田氏の造語です。私も一生懸命自分だけの花を咲かせてそのような生き様ができたらいいなと強く思いました。

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  無功徳とは

さて本日は私の好きな禅語であり、日々実践するよう心がけている言葉『無功徳』を紹介します。ここでいう『功徳』とはWikipediaによると『神仏の恵み、ご利益』を意味し、自身の行為によってもたらされる果報など自分を益するものを指します。言い換えれば『無功徳』とは現代風にいえば『見返りを求めない』意味になります。

 

資本主義の功罪

私たちが暮らしている社会は言うまでもなく資本主義のど真ん中で暮らしています。常に他人との競争にさらされ、その中での社会的成功とは、社会的地位に出世して金銭的に裕福になり、裕福な家庭を作ることが理想像とされています。

 

いつの間にか浸透した言葉『ギブアンドテイク』が私たちの心を犯し、何か見返りがないと行動しない、もしくは今の言葉に置き換えれば『ウィンウィン(WIN WIN)』な状況を如何に創り出し、お互いに利益を得ることが人間関係を円滑にする方法として推奨されています。

 

私がそんな資本主義の言葉にまみれた中で『無功徳』の禅語に出会ったのは、折しも私の娘の発達障害が発覚し無我夢中で子育てをしている最中でした。

 

子育ては確かに大変な作業ですが、一般的には子供に夢や希望を託し、将来の理想像などに胸を膨らませて毎日一生懸命努めていることと思います。無論色々な意見があるとは思いますが、子供の将来像が子育ての見返りであることも紛れもない子育てのひとつの原動力でしょう。

 

しかしながら、私は残念ながらそのような一般的な夢は、自閉症の私の娘に対して抱くことは現実的に難しく、いつも将来はどうなるのだろうという隠れた不安はいつまでも消えぬまま私の頭の片隅に残っています。まして子育ての見返りを期待することなどはほぼできない状況です。

 

無功徳から学んだ娘へ思い

ではなぜ娘を育てるのでしょうか?その理由は単純で、娘のありのままの今を純粋に愛おしく思い、大好きだからだということに『無功徳』を通じて教えられたからです。

 

『見返りを求めない』行為が尊いとすることは、これまでも何度か本の中で触れたことはありましたが、資本主義の中では戯言(ざれごと)として正直、心に留めようと思ったことがありませんでした。

 

しかし娘の子育てを目の当たりにし、この言葉『無功徳』という響きが確実に心の琴線に触れたものがありました。将来など所詮自分も含めてどうなるか分からない。そんな中で将来のことであれこれ悩んでも現在をおろそかにするだけで、あまり意味のない行為だと悟ったのです。

 

ただ『今この瞬間』の子育てに集中してあとは伸び伸び育って欲しいと思うようになった時に初めて私の子育ての『ギブアンドテイク』論から自分自身を解放することができた気がします。

 

今振り返ると、結果的に、娘の子育てからは人として様々のことを学びました。いくら嘆き悲しんでも現実は変わりません。つまり現実を受け入れるには何よりも自分自身の考えを変えなければならなかったのです。

 

そこから『無功徳』を含め、様々な哲学書を読み始めるようになり、生きる上で様々な視点や価値観を持つことができるようになったことは間違いなくその恩恵です。『ギブアンドテイク』から解放されたことがかえって自分の成長を深めるということに自分自身の経験を通じて学ぶことができたのです。 

ギブアンドテイクの弊害

 私たちは一般的に他人に対して親切な行為を行う際には、器の小さいことだとは分かっていても、心のどこかで『小さな見返り』を求めがちです

 

例えば、私が車を運転していて他の車に道を譲る際には、サンキューのウインカーを出してくれることを心のどこかで望んでいる偽りのない自分がいます。また挨拶という日常的なレベルでも会釈をして相手が無反応だった時は、一瞬心にさざ波が立ったりします。

 

他にも家庭での親切心、職場での親切な行為の小さな見返りを求める心。このように資本主義の『ギブアンドテイク』論は私の日常の行為のベースである心の隅々まで微弱ながら影響を与えていることに改めて気づかされました。このような気持ちが強まり執着が続くと、親切心による行為の価値自体が下がってきます。そのような計りのなかで行為を行うことが結果として純粋な親切心自体を毀損することに危機感を抱き始めました。

 

例えば、大切な人に贈り物を購入する時にもし見返りを期待したらどうなるでしょうか。私の育った地域では昭和時代の名残で”お土産の半分返し”という風習があります。例えば5,000円相当のお土産やお歳暮などを頂いたら、暗黙の了解で半分の2,500円を返さないと暗黙で世間の反感をかうことになります。こうなってしまうと贈り物に本来の価値を見出せなくなります。贈り物をあげる方ももらう方も互いを思う純粋な心が悪風習に潰されている典型的な例です。 

行為自体に身を捧げる 

私はこの『無功徳』の姿勢を私が行うあらゆる行動に反映させようと、今現在も含めて精進しています。心の満足感を自分が行為を行ったそれ自体に求めるように変更し、その後の結果や相手の態度、感謝などはあくまで”おまけ”と割り切るように努めるようになりました。

 

もちろん私のようなごくごく普通の凡人は、相手に褒められれば当然うれしいに決まってますし、反応があれば素直に喜びます。しかし大切なことは相手の反応に期待する執着を捨て、相手に対する現在の行動に100%集中するということです。

 

例えば挨拶なら、相手の反応がどうであれ、自分自身が挨拶をしたことに満足感を見出せば、相手の反応はあくまでも”おまけ”になり、それ程気にしなくなります。

 

親切心からくるあらゆる行動も全てにおいて自分自身の行為そのものに満足感を見出すことができれば、より純粋に行為に集中することができ、相手に期待をすることで生じる無駄な邪心が発生することを結果的に防ぐことができます。

 

このような無功徳な親切心はその行為が純粋だからこそ、より多く人を感動させることができ、結果的に自分自身により多くの恩恵をもたらすことを実感しています。

 見返りを求めないことで得られるもの 

もちろん人である以上100満点は不可能なことは理解しています。見返りを求めることは、人類が太古より狩猟生活や農耕生活など人間関係の中で協力し合って生き残ってきた名残りであり、仲間からの感謝を求める感度が強いことは本能から来る欲求であり、いたし方ないことと理解しています。

 

その葛藤を超えて親切心の対価を求めることを止めると、ふと心にある感情が次第に湧き上がってきます。それは『心の豊かさ』と呼ばれる『自己充実感』です。この自己充実感こそがこの蔓延する資本主義社会の格差社会の中で貧富の差を埋め、一人ひとりが人間らしく、誇らしく自分を確立することができるマインドセット(心構え)として唯一お金主義に対抗できるものと考えています。

 まとめ

自己充実感にお金はかかりません。相手がいるいないにかかわらず、自分の行為自体に自分を100%捧げることこそが小さな自己実現の方法であり、生涯を通じて自分を満足させ続けることができる行為です。このブログを書くことも自分の小さな自己実現です。このブログを読む読者を書き手として意識してはいますが、そこに執着はしていません。あくまでも自分の思いをそのまま原液100%で出すことこそがこのブログのエッセンスだと思っています。

 

小さなことから大きなことまで他人から”認めたい””褒められたい”と思うことは人の常です。その思い込みの枠から外れることで以外にも大いなる収穫が得られることを信じてやみません。

 

最後にそれを証明する名言で締めくくりたいと思います。

 

『与えよ、さらば与えられん』 『情けは人の為ならず』

  私のブログから何か少しでも皆さんの考えの一助になれば幸いです。お読みいただきありがとうございました。


ろんじえぱぱ